大学はマジックミラー号である (前編:出席・単位とかいうクソ概念)
俺がマジックミラー号系AVをおかずにしなくなったのは、大学に入学してからではないだろうか。
大学、それは、全国各地に広がる奇妙な箱庭。
この箱庭の内側は、傍から見れば理想的な世界が広がっていよう。ここでは、大学をMM号と呼ぼう。
MM号とはマジックミラー号のことだが、分かりやすいだろう。外から見ればそれは不確かだが、同時に確かに興味をそそられる。
その中には何か途轍もなく煌めいたものが詰まっているんじゃないか。
夢見る全国の少年少女達は、その未知なる空間内部に、あまりにも曖昧な期待を抱き、勉学に励み、「合格」なるものを勝ち取ろうと奮闘する。
ここ日本のみならず、地球全土に点在する多種多様な「大学」。俺も、その「大学」に通う「大学生」の一員である。
「大学生」とは、その名の通り「大学」に「生」きる者を指し、彼らは18を過ぎてなお「学生」という身分に守られ、4年間を過ごすことを余儀なくされる。
余儀なく…というと、まるで彼らが仕方なく大学生の地位を獲得したかのような言い方だが、冒頭でも述べたように、大抵の少年少女達は、期待に胸を膨らませて大学への進学を自ら希望するのだ。
むしろ、高校にいる時点で、「大学に行かない余儀」はあるはずなのだが、「進学」という言葉がそれを邪魔して、否が応でも「大学に行かない余儀」は消え、勉学に励む。
無論、勉学なんぞに励まなくても進学できる大学は山のようにある。果たしてそんな大学に行くことを「進学」と呼んでいいのかは定かではないが、必ずしも勉学が大学進出に直接繋がっているとも限らないのだ。世の中は「金」だ。金さえ積めば入れる大学は腐るほどある。東京が臭いのは、そのせいだろうか。
俺は、曲がりなりにも「受験戦争」という凄惨な歴史(取り戻すことができない過去のことなので、あえて歴史という言葉をチョイスする)を乗り越え、大学への進学を決めた。
合格が決まったときの俺は、紛れもない、曖昧な期待に踊らされ、MM号の中身を直接この目で覗かんとするウブで盛ったクソガキの一人だった。
俺が大学でどのような生活を送っているかは以前述べた。詳しいことはこちらの記事に目を通して欲しい。
ごく簡単にかいつまんで言うと、俺は大学の雰囲気にあてられ、まず、「健康」を失った。そうして、「友人」を作ることもできず、独り身で「尊厳」を失い、やがて開き直り、この手の中から「誇り」を滑り落とした。そして「単位」もついでに落とし、あまつさえ「責任」を放棄する形となった。
要は、大学デビューに失敗したのだ。
こんな安っぽい言葉で俺の苦悩が語れてしまうことが悔しくて仕方ないが、今はぐっと堪えようと思う。
幸いにも、家族と、高校までの友人に恵まれた俺は、TwitterなどのSNSを通してなんとかそれまでの人間関係を保ちながら、今日まで命をつなぎ止めておくことができている。人はこれを奇跡と呼ぶ。
差し迫ってくる卒業。就職活動。
俺が知る高校以前の友人達は、その殆どがこれらの「宿命」に苛まれているようだ。かく言う俺も、一切苛まれていないわけではない。先述したように「単位」を落としているため、この時期の同学年の他の大学生に比べて授業を多く履修している。
卒業には「単位」が必要だ。文科省が決めたんだそう。この「単位」について、まず思っていることを言わせて頂きたい。
「単位」のシステムを簡単に説明しよう。
要は、卒業に必要な材料なわけだが、この「単位」は、授業を履修し教授から「お前は合格!」とかいうありがたいお言葉の代わりに貰える有象無象の産物だ。これが一定数貰えなければ、卒業はできない。
「成績」と「単位」は似て非なる。「成績」は、「単位」を獲得した上で、では獲得した者の中で自分がどのくらいの位置にいるのかの目安としてつけられるものであるため、「単位」を獲得していない人間にとって「成績」とは縁がない存在なのだ。
つまり、「成績」と「卒業」は直結しない。あくまで、「単位」が求められる。
「単位」はその殆どが「教授」や「大学院生」の裁量によって認定されるため、こいつらの言うことを聞いていなければ自ずと卒業はできない。
中には、単位認定の条件に「出席数」を採用しているカスもいる。ここでいうカスとは、「出席数を成績に多少は加味しますよ」という者ではなく、「一定数以上出席しないとそもそも単位を認定してやらんぞ」と抜かすヤツのことだ。
よくあるのが「出席日数が3分の2に達しない者には、単位を認定しない」という文言だ。大抵、1つの授業は15回前後行われるため、5回しか休むことは許されない。
これはつまり、「出席することを前提とした」条件である。
ふざけるな。
テストやレポートが単位認定を左右するのなら分かる。出席日数が成績に多少影響するのも分かる。
ただ、欠席日数が限定されている上に、それが単位認定そのものを左右するというのは分からない。
つまり、どれだけテスト勉強を頑張って遅れを取り戻そうとしても、6回休んだ時点でそいつはお終いなのだ。
教授の立ち位置から言うなら、「どんなに頑張っても、俺の授業を6回も休むようなヤツに単位はやらん!」ということだ。
あまりに傲慢ではないだろうか。
お前の授業がなんぼのもんじゃい。学費を払っているのはこちら側だ。ならば出席するかどうかの裁量はこちら側に委ねられるべきだ。
だが一部のカスは、単位認定のための最低出席日数を予め定めておくことで、我々を脅し、否が応でも授業に参加させようとする。こんな理不尽なことがあっていいのか?
第一、本当に実のなる授業であれば、そもそも最低出席数を定めることなどしないはずだ。自分の授業にある種自信があるのなら、最低出席数など定めなくても学生達は授業に参加してくれると考えるのが普通だ。
だが、一部のカスは、己が学生を洗脳できるとでも思っているのか、はたまた己の授業に自信がないのか、最低出席数を叩きつけ我々を無理にでも取り込もうとする。
そんな授業ならやめてしまえ。
無論、大学は学生自らが考えて行動することが求められる。(これは、MM号の外側からでは見えなかった暗黙の了解である。)
自分が興味を持った授業に参加し、単位を獲得する。これらは全て己の裁量ではあるが、一部のカスの授業ではこの裁量は更に大いなる裁量にまんまと取り込まれてしまう。
この「出席」という概念は、大学の制度そのものに飛び火して、我々の息を詰まらせる。
自分には必要ない授業だな…と思ったのなら、いつでも履修を取りやめて代わりに別の授業を取れるようにするべきではないだろうか?それこそが真の裁量であり、「大学」もとい「大学生」のあるべき姿であるように俺は思う。
だがそれができないのは、そこに「出席」という地獄のような概念がこびりついているからである。
俺の言っていることが正しいかどうかは、誰が決めるものでもない。事実、俺が忌み嫌うこの出席制度は、俺が生まれる以前から何十年も続いてきている。ともすれば俺こそが悪で、俺こそがハナクソなのかもしれない。
でも俺はどうしても納得がいかない。
そもそも、「単位」という制度が気に食わない。
「単位」は、獲れてしまえば「卒業」できる。成績トップで単位を認定された者も、成績下位でギリギリ単位を認定された者も、「卒業」を前にすれば等しくなってしまう。
それこそ授業を全く聞いていないような野郎でも、テスト直前に過去問を入手するなり、伝手を頼ってレジュメや板書を盗めば、卒業できてしまうのが今の大学だ。
これは、MM号の外側にいた頃の俺では到底想像もつかなかったようなことだ。
俺は「単位」ではなく「点数制」を設けるべきだと考える。要は「単位」によってではなく「成績」によって「卒業」を判断するということだ。
例えば「成績」にはA,B,C,Dとランクがあったとしよう。
今の大学制度では、このランクは「卒業」には関係ない。例えば卒業に必要な単位数が100だったとしたなら、Aを100個獲ろうが、Dを100個獲ろうが等しく卒業できてしまう。
俺が提案する「点数制」では、Aを10点、Bを8点、Cを5点、Dを2点とし、「卒業」の用件をこの点数の合計によるものとする。
つまり、例えば卒業に必要な点数が100点だとすれば、10科目全てAを獲れていれば卒業はできるし、逆に30科目全てDであれば卒業はできないということだ。
これであれば、取る必要のないクソみたいな授業を取らずに、興味のある好きな授業だけで点数を稼ごうと奮闘できるし、逆に言うと奮闘しないようなヤツは、他より多くの授業を取って点数をチマチマ稼がなきゃいけなくなる。
勿論この制度にもデメリットはいくらか考えられるが、少なくとも今の「単位制度」よりは、より大学らしさがあって俺はいいと思う。
「やりたくもない必修科目」とかいう誰も幸せにならない存在を生み出す「単位制度」よりも、特定のやりたことだけに集中できる「点数制度」の方が、俺は好きだ。
この「点数制度」は、「無意味な必修科目」「必要以上に課せられる履修」「大学生のやる気の無さ」を解消することができるからだ。
「大学」と言えば「単位」である、とは、大学に入学する前から知っていたことだ。それは高校までの通知表の成績とは一線を画した、画期的で魅力のある制度であると、俺はMM号の傍らでドキドキしていた。
「受験」を乗り越えなければ「単位」の全容は見えてこない。自分の吐息でミラーが白く曇るほどMM号に顔を近づけようともだ。
だから俺は頑張って「受験」を乗り越え、MM号というアトラクションへの4年間パスを手に入れたんだ……
それが…それが……
長くなってしまった。前半はここらで終了だ。
明日は、後半ということで、「研究室」について語ろうと思う。