むろくんこそが、素敵でワガママ

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「読む」以外のことは何も考えないでください。

「優しさ」は果たして長所と言えるか

 

 毎日更新二日目です。ここまで順調ですね。順調すぎて怖いくらいだ。

 

 

 

 

 

 突然ですが、皆さんは「聞く」と「聴く」を使い分けますか?

 

 俺は敢えて使い分けたりします。音楽をきく時は「聴く」を使っています。「聞く」と「聴く」には明確な区別がありそうですけど、調べるのが面倒なので自分で調べてください。

 

 「音楽を聞く」って、なんとなく見た感じ違和感ありません?

 逆に言うと、「話を聴く」も若干の違和感があります。でも、「聴衆」とか「公聴会」とかいう使い方がありますから、「話を聴く」も状況によっては正しいんだと思います。

 

 

 

 

 ただ個人的な意見として、言語に正しいも正しくないもありません。積もるところ、聞き手読み手に伝われば問題ないし、誤用もみんなが使っていれば誤用じゃなくなります。

 

 

 まあ、あえて使い分けたりして表現を巧みにするっていうのは一つの手かも知れませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 為になる話を終えたところで、今回の記事のメインテーマです。

 

 

 

 

 皆さんは、優しいですか?

 

 俺は人一倍優しいです。優しさの到達点という異名を持っています。持っているはずなんです。

 

 

 

 

 少し過去の話をさせていただきます。

 小中学生の頃、俺といえば「かわいさ」「やさしさ」でした。周囲からは「かわいい!」「やさしい!」ともてはやされていたことを今でも鮮明に覚えています。

 

 子供の頃のこういう気持ちいい記憶って残るもんなんですね。

 だから、子供だからと言って油断しない方がいいですよ。例えば小さな男の子でも、女性に「かわいい」と言われれば、それを理解し過大解釈して調子に乗ります。更に、数年経った後もその気持ちよさが忘れられずに、こうして二十歳を超えてからブログのネタにする…なんてことにもなり得ます。

 

 子供を舐めるな。

 

 

 

 

 

 話がズレました。

 

 

 俺も、言われていた当時はいい気になっていました。いい気になっていたというか、露骨に褒められている事に鼻の下を伸ばしていた感じです。スケベですね。助平ですね。

 

 まあ、「かわいさ」についてはまた今度語ります。今回のテーマは「優しさ」です。

 

 

 

 で、高校生になった頃から、「優しい」と言われる機会が極端に減りました。それは俺が単に優しくなくなったからでしょうか?

 

 確かに、中学3年生くらいから俺はひねくれ出しました。ずる賢くなったというか、マイナス思考が増え、汚い人間になっていきます。

 

 

 

 でも、人はそう簡単には変わりません。変わろうと思ってもなかなか変われないんだから、歳月が過ぎたくらいで自然に性格が変わる…なんてことはないんですよ。

 

 

 

 

 じゃあ、なんで「優しい」って言われることがなくなったんでしょうかね。これが、今日のタイトルの出発点です。

 

 もう少し話をしましょう。

 

 

 

 

 特に小学生の時なんかは、正義感が強かったというか、本当の意味で純粋で、右も左も分からない年頃なので、周囲にとにかく優しくしていました。今思えば、あえて優しくしていたかもしれません。優しくしている自分に酔っていたのかな。

 

 

 高校生になって、露骨に周りに優しくするという機会は確実に減りました。優しくしようという魂胆はなくなりましたね。それは事実です。

 

 

 

 

 おいおい、じゃあ俺は優しくなくなったのか?

 

 

 

 先ほども述べましたが、人の性格はそう簡単に変わりません。余程悲惨な境遇を経て高校大学に進学したならともかく、俺は特にそういう負の経験をせずに進学してきました。性格の変わりようがありません。

 

 

 

 

 

 

 大人になるにつれ、「優しさ」は「常識」になったのでは?と考えたのです。急に話が飛躍して申し訳ない。

 

 

 

 普通に生きてきた人間は、二十歳を超えてから些細なことで「優しい」と感じることはないと思います。基本的には。

 

 

 

 

 

 子供の頃は、人に優しくすることが、何か特別なことに思えていたんだと思います。そうして優しくされた側も、特別なことをしてもらえたと感じ、相手に「優しいね」と伝えるんじゃないですか?

 

 

 

 

 

 子供は人生経験が少ないですから、些細なことで「優しさ」を感じます。

 だから例えば小学生の頃、消しゴムを拾ってくれたり、保健室に連れて行ったりしてくれただけで、その人に恋しちゃうなんてこと、ありませんでした?

 

 俺はたぶんあったと思います。恋しちゃったんだ、ってやつですね。この場合はたぶん気付いているパターンですけどね。

 

 

 でも、子供の頃は特別だった「優しさ」が、大人になると当然なモノに変化しますんですわ。「優しさ」は「常識」に変わります。

 

 

 

 

 え?大人になってからでも優しいなって感じることはあるよ!って方もいるんじゃないでしょうか。

 それは、恐らく今まで貴方がたまたまそういうことをされたことが無かったからではないでしょうか。

 

 例えば大人数で食事をしているとき、それまでは自分の分は自分で皿に取り分けていた人間が、ある日いきなり隣の人に取り分けてもらったとしたら、「あれ、この人は優しいな」って感じるんじゃないでしょうか。

 

 取り分けてもらえたことを特別なことと感じ、「優しい」と感じるんじゃないでしょうか。中には「余計なお世話だタコ」と思う人もいるかもしれんが。

 

 逆に、それまで他人に取り分けてもらった経験が多くある人間は、取り分けてもらうことに対してそこまで「優しさ」を感じないはずです。

 

 

 

 

 このような繰り返しで、「優しさ」は「経験」によって「常識」に変わります。

 

 

 

 ややこしくなってきましたね。自分で書いていても難しいと感じます。分かりづらいと思いますが、せっかくですから最後までお付き合いください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 普段、誰かの長所を考える事ってありますか?というか、他人の長所って何となく分かりますよね。自分以外の人間に、自分のココが長所であると感じられれば、それはもう長所です。

 

 

 長所に「優しさ」を上げることがありますね。特に思いつかなかった時は、「優しい」って言っておけばいい、みたいな風潮がありますが、あながち間違っていない風潮だと思います。

 

 というより、「優しさ」って少し曖昧ですよね。「気が利く」とか「融通が利く」とか「器が広い」とか、優しさにも色々あります。

 

 

 

 「優しさ」は具体化しようと思えばできるんですよ。だから、「優しさ」という言葉そのものは非常に曖昧なんです。

 

 

 

 それはたぶん、「優しさ」が本来人間に備わって然るべきモノであるからだと考えます。ここでは「常識」と表現しています。

 

 

 

 

 

 

 何が言いたいかと言うと、「優しさ」は長所なんかではなく、「常識」なんですよ。

 分かります?人間は当然にして、ある程度優しいんです。そういう生き物だから。

 

 

 

 

 

 逆の表現であれば、成立すると思います。

 要は、「優しくないところが短所」という表現ですね。これならば納得がいきます。

 

 俺から言わせれば、「優しくない」ということは、「常識が欠けている」ということですから。

  勿論、「食事を皿に取り分けてもらうこと」のような細かい事に関しては、常識と感じるか感じないかには個人差はありますけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 長々と失礼しました。

 

 

 ふと、「優しさ」って何?と思い立ったんで、パソコン開いて記事にしていました。思いついたことをつらつらと書いただけなので、読みづらい部分や理解しがたい部分があったかもしれませんね。まあ、たぶん許して貰えるでしょう。

 

 

 

 

 優しいということは当たり前のことなんだよってことが書きたかっただけです。俺の周りの人間はみんな優しいです。

 

 優しくない人間はサイコパスです。肝に銘じておいてください。

 

 

 

 ちなみに俺は、誰よりも優しいので、そこんとこよろしくお願いします。